2009年06月30日

神様も昔は自己中心だった

文先生のみ言によれば、昔、神様は自己中心だったそうです。

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人間に対する神の希望という1973年のみ言で次のように語られています。

「我々人間のすべての特質は、神から来ているのであります。我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間に、神の中の生命という概念が完全にかたちとして現れてきたのです。神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。 」

これを初めて聞いたときには驚きました。まさか神様が自己中心だったなんて信じられない。
でも、だんだん分かるようになってきました。

特に女性(母親)は強く実感出来るようです。出産を通じて体験します。

結婚して「子どもが欲しい」と思っているときはだいたい自己中心です。自分が欲しがっているわけです。夫婦の愛の結晶だとか、母親になりたい願望とか、後継ぎとか。

でも妊娠して胎児が大きくなるにつれて、酒やタバコをやめ、大好きな甘い物を控えたり、疲れるのに頑張って歩いたり、中には、風邪で熱を出して苦しくても薬を飲まずに忍耐したり…。

「子どもが欲しい」という思いがいつの間にか「生まれてくる子のために」とか、「五体満足で生まれて幸せになって欲しい」という気持ちに変わっていきます。
 難産や病気などで、母胎か胎児のどちらかしか助からないと宣告されたときに、自分は死んでも良いから子どもを生かして欲しいと願う母親も多いと聞いています。

神様も、天地を創造する以前は「愛する対象が欲しい」だったが、創造を始めたら、自分の事よりも生まれてくるアダムとエバの幸せだけを願って創造された、自分の幸せ以上にアダムとエバの幸せを願ったという話しは納得できます。

子どもを産み育てることで、神様が天地創造されたときの心情を体験できるというのは素晴らしい恩恵です。自分の生命以上に我が子の幸せを願う心情は、子どもを持たなければ分からないことだと思います。

私たちも、神様からそのように創造されたと考えると感謝だし、嬉しくなります。

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2009年06月29日

石川県の携帯電話禁止条例

石川県議会で、小中学生に防災や防犯以外の目的で携帯電話を持たせないようにする保護者の努力義務を盛り込んだ「県いしかわ子ども総合条例」改正案を可決しました。
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「18歳未満の携帯電話のフィルタリング(閲覧規制)を販売事業者が解除する際、保護者に理由を書いた書類を提出してもらうことを義務付ける同条例の別の改正案」も可決しました。

私はおおむね賛成です。

おおむねというのは、本来は親がもっとしっかりしていれば、保護者に任せればいいことだからです。

でも実際は、保護者がボーッとしているから、いじめや自殺や援助交際が増えているのでしょう。携帯電話を持たせていい子と、持たせたらだめな子がいるのに、友達が持っているからというだけで持たせる親が多いから問題が起きます。

持たせても大丈夫なしっかり者の家庭にとっては、こういう条例は迷惑な話です。携帯電話やインターネットはとても便利な道具ですし、情報も上手に選択すれば有用な情報源になります。
でも犯罪が減らない以上、規制は仕方ないことです。子どもを守ることが最優先です。

すべては、携帯電話を持たせてはならない子に対して、持たせてしまっている親の責任でもあると思います。

もちろん、携帯電話会社が自社の利益のために、無差別に子どもに売る
のも問題だし、EMAという団体を作ってフィルタリングに大きな抜け穴を開けてしまった政府の対応も十分でないし、いろいろなことが後手に回っているように思います。

親が我が子に持たせられるか判断できるようになり、携帯電話会社がもう少し社会のことを考え、政府もしっかり対応できるようになるまでは、こういう条例が必要だと思います。

また、こういう条例によって、議論が起きて、多くの保護者が問題点を認識できることを願います。

神様はITをなぜ発展させたのでしょうか。
いろんな意味があると思いますが、万民が幸せになることを願っていると思います。援助交際のための連絡ツールではないだろうし、盗撮していじめるためでもないし、詐欺のためでも無いはず。

援助交際やプチ援交はとても多いのに、その親はほとんど気づいていないのが現状。
親の啓蒙や、子どもの啓蒙にはとても時間がかかるし、手軽に数万円を稼げる方法を知ってしまった子には、チョットくらい教育したところでやめるのは難しいと思います。

だから、今すぐ子どもを守るためには、一端、規制するしか方法は無いと思います。

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2009年06月28日

原理講論の論理展開

統一教会の教典である原理講論の読み方で、ちょっと変わった読み方を紹介します。これは20年くらい前に、ある原理講師から教わった読み方です。

聖句や自然環境などをもとにして帰納法的に推論し仮説を立て、それを別の事実で確認して、仮説の正しさを示すという展開が多く見られます。
原理講論自体、膨大な範囲の問題、難題に対しての解説を僅か600ページに収めた本であるため、個々の事例や事実確認の数は決して多くはありませんが、それでも必要最低限の論理展開を意識して書かれているように感じます。

このことは特に堕落論で顕著に見られます。

たとえば、
堕落論 第一節 罪の根
(一)生命の木と善悪を知る木
 (1)生命の木

では

@生命の木はイスラエル民族の願いであることを示し

「聖書のみ言によれば、堕落人間の願いは生命の木の前に行き、生命の木を完成するところにあるという。すなわち、箴言一三章12節を見れば、旧約聖書において、イスラエル民族も生命の木をその願望の対象として眺めていたし、」

A生命の木はキリスト教徒の願いであることを示し

「黙示録二二章14節の記録を見ると、イエス以後、今日に至るまでのすべてのキリスト教信徒たちの願望もまた、ひたすらに生命の木に至ろうとするところにあるということが分かるのである。」

B @Aより堕落人間全ての願いであることから、堕落前のアダムとエバの願いでもあるに違いないと予想

「このように、堕落人間の究極的な願望が、生命の木であるということを見れば、堕落前のアダムの願望も、生命の木であったに相違ないのである。なぜかといえば、復帰過程にいる堕落人間は、元来堕落前のアダムが完成できなかったその願いを、再び成就しなければならないからである。」

Cそれを聖区で確認

「創世記三章24節を見れば、アダムが罪を犯したために、神は炎の剣をもって生命の木の道をふさいでしまわれたと記されている。この事実を見ても、堕落前のアダムの願望が、生命の木であったということを知ることができる。」

という論理展開になっています。
@AからBの仮説を立て、Cでそれを確認しています。


別の箇所では

(二)蛇の正体

@2つの理由から、蛇は霊的存在であることを説明

「聖書に記録されている蛇は、人間と会話を交わすことができたと記されている。」
「そして、霊的な人間を堕落させたという事実を見れば、これもまた、霊的な存在でなくてはならないはずである。」


A更にもう1点の理由を追加して、霊的存在の理由付けを強めている

「しかも、この蛇が人間に善悪の果を食べさせまい、と計らわれた神の意図を知っていたという事実から見れば、それはなお一層霊的存在でなければならないということになるのである。」

Bそれを聖句で確認

「また、黙示録一二章9節を見ると、「巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、(天より)地に投げ落され」たと記録されているのであるが、この古い蛇が、すなわち、エデンの園においてエバを誘惑したその蛇であるということはいうまでもない。しかも、この蛇が天より落とされたと記されているのを見ると、天にいたその古い蛇とは、霊的存在物でなくて何であろうか。」

C現実の信仰生活でも確認

「また、この蛇を悪魔でありサタンであると呼んでいるが、このサタンは人間の堕落以後今日に至るまで、常に人間の心を悪の方向に引きずってきたものであるがゆえに、まさしくこれは霊的存在でなくてはならないのである。」

これは、@Aで堕落の事実から霊的存在としか考えられないと説明し、BCでそれを確認しています。


沢山あるのですがもう一カ所だけ紹介します
前の続きの部分です

@蛇は天使であることを5つの理由で説明

「では、神から創造された霊的存在であって、」
「人間と会話することもでき、」
「神の目的を知ることもでき、」
「また、その所在は天にあり、」
「そして、それがもし堕落して悪の存在に転落した場合には、時間と空間を超越して人間の心霊を支配し得る能力をもつ、」


「そのような条件を備えた存在とは、いったい何なのであろうか。こう考えてみると天使以外にこのような条件を具備した存在はないので、まずこの蛇は、天使を比喩したものであると見ることができるのである。」

Aそれを聖句で確認

「そこで、ペテロ・二章4節を見ると、神は罪を犯したみ使いたちを許し給わず、地獄に投げ入れられたと記録されているのである。このみ言は、天使こそが人間を誘惑して罪を犯させたその蛇の正体であるという事実を、決定的に立証しているのである。」

これも、@で堕落の事実から天使に違いないと説明し、Aで聖句を使って確認しています。


堕落論はこのように、ただ平坦に並べて説明するのではなく、仮説を立ててから検証するとか、最低限のことで結論づけた後で更に念を押すように事実を付け加えるというような論理展開が多く見られます。


感じること

たぶん、クリスチャンにとって堕落論は受け入れるのが難しい内容であるため、慎重に書かれたのだろうと思います。

2000年間もの間、迫害を乗り越えて神に対する信仰を守り続けてきたクリスチャン、まさに神様が最も愛しているであろうクリスチャンに対して、「どうかこの堕落論につまずかないで、原理の内容を受け入れて欲しい」という切実な願いが込められているように感じます。

この堕落論の論理展開は、初代会長の劉孝元先生の責任感と執念を感じます。


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2009年06月27日

神様は見えなくて良かった

文鮮明先生の「天聖経」の中に神様は見えなくて良かったというはなしがあります。

「天宙の大主宰なる神様が人間の目に見えるようになれば、神様をお互いが奪い合おうとして、けんかをするでしょうか、しないでしょうか。このけんかを防ぐ道がないのです。神様が見えなくて良かったのです。
 もし神様が見えたとすれば、アメリカとソ連がお互いに、自分の神様だと争うでしょうか、争わないでしょうか。争うのです。その争いを誰が止められますか。神様は全知で、こんな争いが起こるかもしれないので、無形でいらっしゃるのです。神様が見えることを願うのは、ばかげた行為なのです。見えなくて良かったのです。」
(「真の神様」より)
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神様は全知全能だから、自分自身を見えるようにすることだって可能なのでしょう。でも、見えないようにされているという話しです。

確かに、神様は見えなくて良かったと思います。
でも、見えないから「神はいない」という人も多く現れるし、私自身も神様がいるのかいないのか、ハッキリさせるのに何年も悩んでいました。

神様がいるというのなら見せてみろ! という人もいます。どうして見えないんだろうかと悩んでいました。努力すれば見えるようになるんだろうかと考えたこともありました。

人類始祖の堕落という事件がなければ、神様と会話していたのだから見えなくても問題なかったのでしょうけど、堕落の事件以降は直接会話が出来なくなりましたので、神様を発見することが難しくなりました。

私は統一教会の信仰をもって20年にもなりますが、今でも1日の殆どの時間は神様を忘れて生活しています。もちろん、親のことを忘れて生活するのは不自然では無いかもしれません。でも、人間も自然も神様が作られた訳ですから、それを見ながら生活しているのに、神様のことをすっかり忘れてしまうというのはなんとも情けないことだと感じています。

これが私の中にある罪というものなんでしょうね。

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2009年06月26日

堕落性が同じ人は衝突する

先日、職場でチョットした衝突がありました。大人ですから喧嘩にはなりませんでしたが。
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怒っている方の言い分を聞きましたが(聞きたかった訳じゃない)、「あいつは約束を守らないから許せない」って文句を言っていました。

約束を忘れてしまうのは問題ありですけど、しかし、まるで親の敵みたいに憎むのも異常な感じです。

じゃあ、その文句を言っている人は約束を守るかというと、守るには守るけど、何かを頼んでも快く引き受けてくれません。「余計な仕事はしたくない」ってオーラを出し続けている人です。

根掘り葉掘り聞きながら私なりに分析してみました。

その人は、約束を守ることが煩わしく感じているようでした。だから「約束したくないオーラ」を出し続けています。

約束を守らない人も問題だけど、約束を守ることが煩わしく思っている人も五十歩百歩かなと思います。自分が約束を守ることに感謝していないというか、嫌だけど我慢して約束を守っているわけです。


心の欠点を統一原理では堕落性といいます。

統一教会の信仰生活講座では、嫌いな人や軽蔑する人が現れたら、同じ堕落性が自分にあるからそれを見つける良い機会だと教えられています。
もし、自分にその堕落性が無い場合は、対人関係などで苦労している姿を見て可哀想になり、助けてあげたくなるそうです。

ということは、助けたい気持ちが出なければ、自分に同じ堕落性があるということかな?

堕落性の衝突というのは、
「自分はこんなに感謝できないことを我慢しているのに、あいつは我慢しようとしない。不公平だ! だから許せない!」

そういう心の叫びでしょうか。

結局、感謝できないと言う点では同レベルなわけで、そこを解決しないと色んな人と衝突を続けることになりそうです。

私も葛藤する人は少なくないので、自分の心の中にも色んな魑魅魍魎がいるのでしょうね。

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posted by 理科系おじさん at 23:39 | Comment(0) | TrackBack(1) | 日常生活の神様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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